個人・小資本情報発信概論

20世紀、僕は衆愚の中で付和雷同を強要され、それに同化する最大限の努力をした。コミュニズムの掟、それは偏差値で換算される人間の価値。少年の頃からその違和感を全面的に感じ取ってしまっていた。自らを差別化、記号化させる道へ。それは自らを「個」と認めることと、一つ一つの他者をすべて「個」として見る目を養うことに始まった・・・。

act.5 数の威を借り常識を発信する人々

 常識を然り顔で言ってる奴ぁ、クソだな・・・。

 そんなもの見にホームページへは行かない。ある程度その人の言葉で書かれた文章じゃなければ面白くないと思う。民主主義は数こそ力みたいなところあるけど、これが資本主義社会でつまずくパラドックスでもある。小学校の頃からデファクトスタンダードを見極めることしか能がないというか、どっちがポルシェビキなのかを上目づかいに恐る恐る探す輩が多くて辟易した。この時点で情報発信の潜在能力を失っていると言っていいだろう。既に体勢が受身というか、受信モードに体がなってしまっている。どんぐりの背比べのような集団の中で差別化を計ろうとすれば、皆極めて相対的にならざるを得ない。

 発信するものを持ち合わせていないのである。誰かの受け入りなのである。それも媒体で人気のある人の評論なのである。
 さらに常に多数派につこうとする姿勢が、BBSなんかでちょっとはめはずす奴が出てくると集団バッシングに走る連中が存在する。普段そんなに積極的に書き込んでいるハンドルネームじゃないのに、そういう時は百万の味方をつけたように「常識」論を持ち出す。スネオがジャイアンの影から遠吠えするみたいに。あぁヤダヤダ・・・。正当化しようと文面が「我こそ正義」みたいな雰囲気をかもし出してる。日本人は「郷に入れば郷に従え」を強要しすぎのキラいがある。ホームページも擬似コミュニティとすると、暗黙のルールというか不文律がありそうなページが多い。同じ毛色の人間が集まるということで、それはそれでいいんだろうが。

 別に俺はジャンルどうこうで、そのサイトがどうのこうのいうつもりはない。家族紹介のサイト、果たして誰が見るのだろう?と疑問に思うことはあれ、その家族のひとりひとりが紹介されていると結構面白かったりする。結局○○家は○○家でしかないという、オリジナリティがあるから見ごたえがあるのかもしれない。まぁそういうサイトにめぐり合うのは家族紹介サイトを探して行き着いたわけでなく、なんらかのサイトに附随して家族サイトが併設してあってたまたま見たからなんだけど。でもよくセオリーに「家族の紹介をしても、誰もあなたのサイトを見ませんよ」みたいなことかいてあるけど、その家族をよく知る人や、併設されているサイトから偶然その家族を知って、その家族の雰囲気がどうにも暖かいものであれば、人は何度も訪れてしまうのではないか?こういう家族サイトはダメってタテ割に決め付ける文章とか見ると吐き気がする。

 有益じゃないとサイトはいけませんよ。常識的でないといけませんよ。1日××アクセスないといけませんよ。うちは1日1000HITを誇るサイトです。うちは1日1ケタのアクセスしかないダメなサイトなんだ・・・。

 もっと活き活きとした、あたかもサイトマスターがPCから出てきそうな人間臭いサイトに僕はずっと魅力を感じ続ける。数の多寡で優劣争ってるうちはオリジナリティは絶対にうまれない。ちょっとヒント。あるウェブサイトのLINKにそのお店の紹介がこう書いてあった。「当店ではガラクタしか売ってません。基本的に店員以外は皆売り物です」クリックせずにはいられなかったね!